FC2ブログ

かがみ

最近の記事

月別アーカイブ

リンク

小話

2018.02.28 未分類

***

 手のひらの中に何かが残っていた。それはとても美しい香りを放っていたが、よく見ると真っ黒に焦げ付いて鉄のような匂いに変わっていた。ただそこだけが痛いほどに熱い。全身の氷がその刃によって壊されてしまったかのようだった。
 だから私はもうあの頃のように笑えなくなっていた。上手く繕おうと顔を歪めてみても、ただ本当に歪な色が顔の上に降りかかるだけだ。確かめるように手のひらを開いては閉じてみる。中心部が刺されたように痛い。
 この痛さを私は知っていたのかもしれない。もう長い間知らん顔をしていたが、その先に私の本当が隠れている事など、とうの昔に分かっていたのだ。私はもうどうしたって戻れなくなっていた。貴方の手が離れたあの瞬間から、私の世界は――いいや、もっと前だ。もっともっと前、貴方に守られた時、貴方に褒められた時、貴方の偽りない顔を見た時、貴方の瞳を感じた時、そうして貴方の名前を貴方の口から聞いたあの時から、私は奈落を捨て去ろうと無意識下で決意していたのだ。
 奈落は愛おしい。私には奈落が必要だ。何故なら奈落は私を救ってくれる。何もかもが美しく輝き、私の手の中へと還ってくる。それはとても素晴らしい事だ。誰もが羨む理想的な未来だ。それら全てが奈落にあると私は信じていた。私という存在が世界にとって必要とされなくなった時から、私の心は奈落へ還されるべきだと自然に理解していたのだ。
 だが、この感覚を私は知らない。海の底から空へと突き抜けるような衝動が私の中で駆け巡っている。光ではなく、闇でもない何かが、貴方の元へ真っ直ぐ伸びていた。そしてそれが私の中から出ている事を理解するのは容易い事だった。
 私はきっと、この結末を許していない。だからこそ、抗おうとしている。
 そして抗うすべを私はもう知っていた。
「ユミト」
 まるでこの世の終わりにでも直面したかのような表情をしている相手の名を呼ぶ。ふとその名がとても美しい事に気が付いた。
「理解できたかもしれない。私の中にある、変なものが何なのか」
「トート」
「でもね、まだその名前がよく分からない。ユミトは知ってる、この焦げ付いたような匂いのする……あの人に触られた最後の場所だけが熱を持っているような、そんな感覚の名前」
「呼び名は、君が決めるといい」
 そう言ったユミトは何も映していない目を空に向けた。赤い空は混沌が羽ばたき、不気味なほど静かだ。
 だけど私はそれもまたいいような気がしていた。
「私にはまだよく理解できないけど、理解しなくたって構わないよね」
「そうかもしれない」
「私が無くたっていいんだから。きっと私が無くなっても私は存在する。私にこの感覚が生まれてしまった以上、私は永遠に消滅する事はないだろう。だって」
 貴方に気付いてもらえなくてもいい。誰も知らなくたって構わない。貴方の手の中にあった熱が急速に冷めていくあんな感覚はもう二度と味わいたくない。私の今の全てはそれだけだったのだから。
「私は私の為の死を諦める。そして、彼に最高の死を与えるよ」

***
スポンサーサイト